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【極東シベリア】国際猫ショー

サハリンのユジノサハリンスクで、国際猫ショー(Международная выставка кошек)なる催しが開かれたそうです。

主催したのは国際猫連盟(World Cat Federation:WCF)という、素人目にはうさんくさそうな?組織で、アヴァンタージ(Авантаж)という猫愛好家の団体が企画したものであるとのこと(WCFのサイトはこちら)。品種もさまざまな猫74匹が、青年の部・成人の部ならぬ青猫?の部・成猫?の部のそれぞれに出展し、モスクワやハバロフスク、エカテリンブルクから招待された専門家が評価したり、人気投票が行われたりしたようです。
出展した猫たちとは別にセールも行われて、気に入った子猫を選んだり、のちに譲ってもらうべく飼い主と交渉したりするシーンが見られたようでした。

品種としては、シベリアン、アビシニアン、スコットランド、カーラー、ベンガルとかいった名前が並んでいるのですが、門外漢にはさっぱりわからない…

ロシアには、猫をならして芸をさせる芝居小屋があるそうで、あのなつかない連中をあやつれる人たちというのは、どんな才能を持っているのだろう、と常々思っているのですが、こうした猫ファンの底辺のような場所におじゃまする機会があれば、そのあたりの秘密がわかるのかもしれません。

Photo via Good Free Photos

【極東シベリア】千島列島で命名された島

先日、ロシアが千島列島の無名島に名前をつけた、との報道がありました。

ユジノサハリンスクの新聞で、本件に関して3つの記事を見つけました。

一つ目は2月12日の地元の速報記事のようで、千島列島の5つの島に命名したとして、島名にしたらしい5人の名前を挙げています。ロシア地理協会サハリン支部というところが音頭をとって決めたそうです。

二つ目はモスクワの中央紙引用で、こちらは多少詳しく書いてあります。千島列島の地理的な説明に始まって、今回対象になった島々へのかかわりのいきさつ、命名された人のプロフィールなどが書いてあります。ただし、最初の地元速報記事とは、人名が少し異なっています。

三つ目は地元紙が、今回の命名に対して日本政府が抗議した、と伝えるものです。内閣官房長官が、外交ルートを通じて抗議した、と記者会見で述べた、と書いてあるだけ。

島の名前に割り当てた人とは、地元記事によると、デレビヤンコ、グロムイコ、ファルフトディノフ(Фархутдинов)、グネチコ、シェティニナの5人。中央紙のほうはカピッツァ、ファフルトディノフ(Фахрутдинов)、グネチコ、グロムイコ、シェティニナ、デレビヤンコの6人の名前を挙げていて、ちょっと訳し切れていないのですが、グロムイコとシェティニナは連名で名づけられたのかもしれません。

島の場所については、最初の3人の名前がつけられたのは、色丹島の近くである、と書いてあるだけ。グロムイコとシェティニナにまつわる島については、得撫島の北にある、と読めます。最後のデレビヤンコ島はアヌーチナ島の北東端、ペチャリヌイ岬の近くにある、とあります。アヌーチナ島とは、日本では秋勇留島と呼ばれている島です。面積は200平方メートルだそうで、15メートル四方くらいしかない?

カピッツァというのはロシアの物理学者、シェティニナさんは世界初の女性船長だそうで、オデッサからカムチャツカまで船を指揮してやってきたとのこと。ファルフト…って綴りが違っているのですが、この人はかつてのサハリン州の知事さんで、乗っていたヘリコプターが墜落して遭難した人です。グロムイコはソビエト時代の政治家。知事さんはともかく、ほかの人は千島とのつながりが読めない。

さて、あとの2人は第二次世界大戦の対日戦関係者です。グネチコはソビエトの軍人で、占守島の戦闘などを指揮して、千島の占領に当たった。デレビヤンコもソビエトの将軍で、日本の降伏文書の調印に際しては、東京湾上のミズーリ号の上で署名している写真が残っています。

でもデレビヤンコさんは、対日戦の現場で実際にドンパチしたわけではないだろうし、まして千島とは無関係のはず。グネチコさんは確かに島伝いに南下してきましたが、得撫島で引き返し、南部千島は樺太からやってきた部隊が占領したはずです。

となるとこの命名は、歴史的な事跡に基づくというより、政治的なメッセージであるとしか見えない。先の地元紙には、地理協会の支部長さん?のコメントとして、1945年の日本の降伏によって、この島がロシア地図に登場した、その降伏調印にかかわったのがデレビヤンコ将軍だ、といった文章があり、今回の発表の意図がうかがい知れます。

 

【ロシア】イサク聖堂

サンクトペテルブルクにイサク聖堂という教会建築があります。

縦横高さとも、100m前後ある、壮大な建物です。

この建物をロシア正教会に返還する、といった記事がありました。

教会建築なので、祭壇だの、装飾だの、ステンドグラスと内部はきらびやかで、当然信者の人たちがどこかでお祈りしているんだろうと思っていましたが、実際には国有の博物館の扱いだったのだと、初めて知りました。でも確かに、中は外国人とか観光スタイルの人たちばかりだったような気もします。

記事は、年間320万人が訪れる、ロシアで3番目に人気のある観光地で、入場料で年間4億ルーブルも稼いでいるといった話から、建造から現代に至るトピックを伝えて、観光に及ぼす影響であるとか、補助金に絡む憶測などを述べているようです。

ソビエト時代、無神論の立場から多くの教会が博物館などにされてしまい、イサク聖堂の問題も、こうした時代背景を背負っているのでしょう。

一方、近くにカザン聖堂という建物があり、こちらは教会としての役割を取り戻したようで、多くの市民がお祈りに来ていました。十字を切ったあとに、日本人が寺社を参拝した折に、本殿や本堂に向かってするように、お辞儀をしたりする様子を見て、なかなか興味を覚えました。